「いき」について

デザイン要素&原理 「いき」の考察

「いき」だねー

 「いき」は江戸時代に生まれ明治・大正を経て昭和の後半で日本も世界2位のGDPにまでなりましたが、当時「いき」は生きた言葉でした。その後バブルの狂乱と崩壊をなんとか潜りぬけましたが、その後のIT長者が生まれました。

  立川談四楼さんの著書「粋な日本語はカネに勝る!」に「カネ儲けの何が悪い?と。悪くはないんです。カネがなくて苦労する人はいても、カネが有り過ぎて困るひとはいないのですから。でもそれは、口が裂けてもいってはならないセリフなんですね。それを言っちゃあお終いよ、なのです。このときです。粋か野暮かの息の根が完全に止められたのは・・・(以下略)」と記し、昭和のバブルのあと、ITバブルも弾けたあたりから「いき」という言葉は聞かなくなったようにも思えると記しています。この本は面白いので是非お読みください。

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 現在では「いき」だね~という言葉は「和風も良いね~」くらいの意味しか持っておらず、「いき」本来の価値観を示すことばとして「いき」は全く聞かなくなりました。

 私は江戸っ子と呼ばれる地域の浅草で生まれ育ったので、子供ころから「いき」はとても大切な感覚として祖父母両親や周囲の大人から教え込まれ肌感覚でを捉えていました。

 まず「いきか無粋」という対向した価値観です。ここには経済的なヒエラルキーは含まれないことがポイントです。そして武士や金持ちが無粋なことをすれば「野暮だねぇ」と蔑まれ、反対に貧乏な小市民でも洒落たコトをすれば「いきだねぇ」と誉められる。この「いき」は法や倫理観に被さる形で美意識の価値観として江戸の「町人文化」はまとめていたと思います。

 その「いき」を現代風に再解釈してみたいと思っています。

 ここで提案したいのは旧態依然とした価値観に対し、機智に富んだセンスの良い対抗策としての「いき」を、経済性や合理性などを超越した美しい行動として捉え、その「いき」を「生活の目標にできないか」」ということを考えていきたいと思います。

「いき」と「いいね」の違い

「いき」か無粋かと比較してSNSでの「いいね」はなんでしょう。「いい」は普通に考えれば「良い」のくだけた言い方でしょう。ですから「いいね」といえば、「正しい」「同意する」「優れている」「ヒエラルキーが高い」「効果がある」「利益になる」「適している」など「〇〇がある」「〇〇が上位にある」といった意味に捉えるでしょう。もちろん「いいね」に「いき」の概念も含まれているとは思います。

SNSに「良くないね」という機能は実装されていないので、人の意見を否定することは出来ないシステム設計の筈です。これはこれでよく出来たシステムですが、否定することができないため、否定したいときは転送という手段で「否定する言葉」を書く必要があり、情報が拡散するにつれて「否定の言葉」が辛辣になり、パワーが増大してしまうという側面を持つと思います。   

そして江戸時代であれば「いき」を否定する「無粋」は陰口として語られ表面化することはありませんでしたが、SNSでは陰口ではなく「匿名」という手段を用いて表面化することで暴力性を持ってきました。

対して「いきか無粋」は良い悪いという価値観ではなく、洒落たコトをすれば「いき」と誉められますが、あくまでも相対的です。ですから非常に絶対値の高い「いき」な行為に対し、それほどでもない行為をすればそれは普通の行為として流されます。そして庶民の敵となる武士などが「無粋」なことをすれば面と向かってではなくても噂として非難される対象になりますが決して表立つことはありません。

このように「いき」という概念は庶民の中で生きた言葉であり、逆に絶対に逆らえない武士を小馬鹿にして溜飲を下げるというモノだったようです。

続けて「いき」について考えてみたいと思います。

• ではまた!

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